2015年10月15日、「網走の近代捕鯨100年史–捕鯨の町で科学する–」と題して網走市民大学で話をした。結果は散々、つまらない話をしてしまい、とても反省している。捕鯨の歴史は参加者から長く要望されていた内容と聞いていたので、気合いを入れて準備をして挑んだ。が、この「挑む」という構えがまず間違いだった。網走の捕鯨史については、すでに郷土史家が聞き書きを単行本で刊行してるほか、いくつかの書籍で取り上げられており、地元新聞のコラムでもたびたび登場してきた。高齢者はそれらを何度も目にしてきている。
それに、ちょうど1か月語の11月15日には捕鯨サミットが開催され、聞き書きの著者も登壇する。その著者にではなく、自分が指名されたのだから、別の切り口が求められているのではないか。ありきたりの話をしたら「そんなことは知っている。すでに本に書いてある。もっと別のことを聞きたかった」と言われるのではないか。そんな思いから、だれも知らない資料や写真を集め、ウェブページを見まくって、知り合いからもデータを提供してもらい、どうだこんなの初めて見ただろうというスライドをセットした。でも、これが大きな勘違いだった。求められていたのは、オーソドックスな歴史の話だったのだ。IWCの鯨の定義や国際裁判所の指摘事項、主要国の脱捕鯨への転換点など触れなくてもよかった。高齢者はすでに知っている話を聞きたがる。待ってました、ここで一番決めぜりふ、てな話がよかったのだ。こんなことは十分承知のはずだったのに。
タイトルからすれば話の内容は歴史が中心に見える。しかし、実際の話は「捕鯨を巡る状勢変化と現状を知り、網走の捕鯨産業の将来展望を描いてみる」といった内容で、歴史の話は比重としては軽かった。看板に偽りがあったのは確かだった。自分の話は、導入にシーシェパード主演のディスカバリーチャンネル「鯨戦争」を持ってきて、こんな過激な集団が賑わしているが、我々捕鯨の地元住民が知るべきことはあれとこれでとあっちこっちに話が飛んで、昔の写真が出たと思ったら鮎川や紀伊大島でがっかりして、最後の網走が捕鯨基地として再出発するにはなんてまったくの独り善がり、参加者はそんなことには興味がなかった。
今回話すべきだったのは網走に限った近代捕鯨の歩み。その構成は、タンネシラリに捕鯨会社がやってきた、世界一の東洋捕鯨、5年で終わった大正の捕鯨、市街地に移転し昭和の再操業、捕獲鯨種と捕獲数の変遷、小型捕鯨業の始まり、写真と映像に見るミンククジラ漁、商業捕鯨モラトリアムの影響、ツチクジラ漁で再出発、復活した網走船籍の捕鯨船といったところ。写真は絵はがきなどよく知られたもので十分で、その説明を聞きながらスクリーンでじっくり見ることが必要だったのだ。事業場とその跡地はグーグルアースと事業場の設計図を重ねるのではなく、跡地の現状はこれですよと道路端から見た風景、そして博物館に残る捕鯨資料といったところだろう。そんなの行けば見られるじゃないか、と思ってしまうが、車がなく歩くのにも不自由する年代になれば、そうそう行けるものではない。常設展示室に何十年も置かれた資料だって、見たことがなければ初めて見るめずらしいものになるのだから。
それから配付資料の説明が不十分だったのも悪かった。だいたい資料の案内をしたのが話の後半になってからで、重要点を示すことさえしなかった。だって読めば分かるだろうそんなもの。そういう風に作ってある。スライドに投影された文字を読み上げることも少なかった。読まなくても見たらわかるでしょう。75分の話に100枚を越えるスライドを詰め込んだのだから、時間は有効に使わなくてはならない。そんな風に思っていたのだろう。
あまりに思いやりに欠けた講演だった。もっとじっくりとスライドを見つめ、興味や関心がわき出すまで待つ時間が必要だった。ゆっくりゆったり思い出と過ごせるように。