何年か前、ヘイケボタルの放流の噂を聞いて、やめさせようとしたことがある。同志数名で中心人物に直談判し、聞き入れられなかったのだが飼育と放流行事を予定していた学校が取りやめたため、その年の放流は見送られた。しかし結局、ホタルは翌年に学校から放流された。そこはかつてヘイケボタルが見られた場所。現在は確認されていないというが、自然に復活する可能性がある場所だった。
まず児童に飼育放流させる予定の小学校に話をした。こちらが問題にしたのは2つ。ひとつは他所の個体群が入り込むことの遺伝子汚染。もうひとつは誤った認識のまま子どもに飼育放流させるのは教育上問題で、当事者となった子どもたちが将来後悔するであろうこと。当の校長は、ホタルの放流が遺伝子汚染を引き起こすことも移入種だということも認識がなく、いいことをしているとばかり思っていた。なにしろ放流するのがゲンジボタルかヘイケボタルかさえも知らなかった。子どもと教員の理科離れが話題となっていた頃なので、学校教員の見識に愕然としたものだ。当時のメールに「理科教育の現実を見てしまったようでとても将来が不安です。とにかく当事者になりたくないようで、訪問はいやがられました」などと書いている。そして「地域全体で盛り上がっているようで、もう後戻りできない」ような口ぶりだった。しかしながら、こちらの懸念は理解してくれ、放流は取りやめるという決断をなされた。後戻りしてくれたのだ。
ついで、放流を予定している団体の責任者に連絡をしたら、会って話を聞いてくれるという。これは驚きだった。放す放さないで交渉相手となった人物は、とても立派な方だった。背筋は伸びて背も高く、おそらく仕事でも実績があるのだろう、日に焼けた堂々とした紳士だった。おそらく70代だろうか、経験に裏付けられた自信に満ちていて自分なんかとても敵わない。その人が言う、世間ではおなじヘイケボタルとなっているんだからいいだろう。この人は個体群や遺伝子汚染のこともわかっている。知った上での確信犯なのだ。そして語った次の言葉が忘れられない。人間は他の生き物を移動させたり生かしたりする権利がある、と。農家ならではの実感なのだろう。適した植物や優れた動物を他所から持ってきて改良していく。農業こそ外来生物で成り立っているのだ。外来種の否定は究極には農業の否定につながることを見抜いていた。
疑問に思ったのは、なぜホタルの放流を思いつくに至ったかということだ。放流の主体は、資源保全協議会といって地域の美化運動を行っている団体。合併前の旧農協を単位に組織された地域団体だという。それを農林水産省は手放さない。「わが村は美しく」と題して景観を題材に競わせている。一線を退きはしたが、まだまだ元気な高齢者の勤労意欲を上手に使っているのだ。しかし、中身については自主性に任しているといって責任はとらない。ガイドラインもない。そうすればエスカレートするのが世の常で、あっちはトンボ、こっちはホタル、向こうの道には千本桜と定型化されたふるさと景観が次々に誕生していくことだろう。
北海道の農村景観は補助金事業でキャラ付けされたものだ。農地の形状や建物はそれでもよい。その傍らの生きてきた野生生物を未来永劫巻き添えにするのだけはやめてほしい。